今でも思い出す場面がある。


いつだったか、久しぶりに祖母の家へ姉と泊まりにいった日のこと。
お菓子をたらふく食べ、ひどくおなかがふくれていた。

その日の晩御飯は、すき焼きだった。
2人のために美味しいお肉を買ったのよと
まだ元気だった頃の祖母がにこにことしていた。


お肉は、ほとんど食べられなかった。
ばあちゃん独りじゃ、食べられないよと
祖母は困ったように笑った。




あの日のことを、ふとした瞬間思い出す。
祖母に悪いことをしたという罪悪感を
今でもはっきりとひきずっている。

あれから何年も月日がたって
今では、寝たきりになり、しゃべれなくなった祖母が
薄暗い病室で寝ている。

体が不自由になって、一緒に過ごしたとき
どうしてもっと優しくしてあげなかったのだろうとか
老人ホームにはいってからも、もっと遊びにいけばよかったのにとか
色んな罪悪感の中で、
あの日、祖母が私達のために買ってくれた牛肉を
全部食べれなかったことが、
なぜだか一番胸の奥底でうずいて離れない。




祖母の、私達を喜ばせたいと想ってくれた気持ちの塊を
たいらげることのできなかった自分に対する気持ちが
胸の底にこびりついて離れない。




自分の魂について、考えたことが今までなかった。


唐突に、気づいた。


そうしたら少しだけ楽しくなった。





私の魂は、実体はないけれど
あったとしたらどんな形をしてるんだろう。

頭の中で、イメージを追いかける。


多分、丸い。
ボコボコしていそう。
ふわふわではない。
形を変えそうだ。

紐でぐるぐるになっていそうな気もした。
麻の紐。




イヤホンで音楽を聴くと
魂が共鳴していく。
共鳴できる音楽が、一番気持ちいい。







魂が感じることを、私自身も感じていたい。
ひどく難しいことのように思えるけれど
案外簡単なのかもしれない。






私の頭の先から、爪先まで
私に私という存在が宿っている。


愚痴や、悩みをきくのはとても簡単。



でも、逆は時々ひどく難しい。



色んなことが、私をふみとどまらせる。




飲み込んだ言葉は、消化させるのに時間がかかる。
食道がやけただれていく。


完結させるまでの時間が苦痛だけれど
誰とそれを共有したらいいのか、分からない。








決定的な原因は、
今までも、これからも
私が自分に自信も誇りも持てないからだ。



そこまで分かっていても、安心出来る言葉はどこにも落ちてない。
暖かい言葉も、私はふいっと避けてしまう。
私を限りなく100%に近い気持ちを受けとめて、
寄り添って歩いてくれると信じられる人がいないからだ。



私はいつもどんな時も平気なふりをしながら、
切望してる。




見つかるまで、どうすればいいんだろう?

出会った時のために、自分を磨く?
信じて待つ?
行きたい場所へとりあえず行ってみる?
今はそうでなくても、いずれそうなると誰かを信じてみる?
他には?




たったひとつだけわかることは、絶対に中途半端ではダメだってこと。



そうでないと、私は救われないから。